もバンドーの落書き帳

もバンドーの日記みたいなもんです

遺書の下書き

まず初めに断っておきたいのは,私はこの文章を『遺書の下書き』と題してはいるものの自殺をしようという意思を表明しているのではないということを覚えていてほしい.「健康な若い男性が『遺書』なるものを書くなんて自殺する気に違いない」と考え,思いとどまらせようと考える人がいるかもしれないが,私はどちらかというと生物的な自殺をしないためにこの文章を書いている.私の苦悩を書き表した物であるが,私が生物的に死んで初めてこの文章は生を捨て理由を綴る遺書となり,私が生きているうちはこの文章は『自分が自殺しない為の選択肢の覚え書き』のようなものであると考えているので,読み直しても大丈夫なようにそれなりに考えた構成の文章にする.わざわざブログに公開するのもそのためである.

 

私は物心ついたときから,世の中には完璧なものが存在すると考えていた.「世の中に生じる問題は,世の中が,人間が完璧ではない幼稚な存在であるが故に生じるものであり,完璧な判断をできる人間がいれば,人間が完璧な存在になれるのであればその問題は生じない」という持論を持っていた.人間が他の生物と違うのは,経験や知識を以て完璧に近づくことが出来ることであると考えていた.人間の価値は完璧な存在に近いか否かであり,完璧に近づくことが生きる意味であると信じていた.これは一種の宗教のようなものだ.

 

一般的に「人生は選択の連続である」と言われるが,この思想に私の信仰を掛け合わせたときに私はミスを犯した.「人間の価値は失敗をしない事」と解釈してしまったのだ.当然人生における選択に失敗は付き物であるが,私は失敗を恐れるがあまり選択の場に立つことを避けるか,選択を他人に委ねるようになってしまった.選択をしなければそこに失敗は存在せず,他人の選択による自身の失敗は他人の価値を損なうのみであるという理屈である.そういうわけで私の中に何故か『完璧さ』が生成された.

 

完璧な人間は他と比較をする必要が無い訳であるが,私の中にある『完璧さ』は失敗が存在しないことが反証的に生み出した,実体のない不確定なものである.加えて私の個人的な能力の不足の露呈や知識の増加,私の生きる世界の拡大が,私の持つ『完璧さ』が損壊することを恐れた.有名無実な『完璧さ』を抱えた私が次に行ったのは,世の中で善いとされるものの粗探しである.善いとされているものの欠点をたった一つ見つけるだけで,自身の『完璧さ』と比較し一段下の事象であると見下すことが出来,『完璧さ』は守られる.

 

ここで「そもそも私個人の能力の不足は私の『完璧さ』を損壊する要素では無いのか?」と疑問を持ったが,ここで私は2度目のミスを犯した.完璧さへの信仰心あるいは自身の持つ『完璧さ』のどちらも捨てることが出来なかったのである.結果として「完璧か否か」という二元的思考により完璧でない事象は全て並列となり『完璧さ』と善さは,最低でも同格となった.既に『完璧さ』の完璧さは失われている気もするが,を自分を守ることが出来るだけで精一杯だった.

 

しかし,完璧さを求めながら自身の持つ『完璧さ』は程遠いものであるという矛盾は私の持つ完璧さを求める宗教にとって毒であり,精神を蝕み,正体不明の違和感に耐えられなくなった.精神科の先生やカウンセラーの先生の「自身を・考え方を変えるしかない」という言葉に従い自分自身と向き合い,見つめ直した.自分の根幹であり,必死に守り続けた『完璧さ』と再び向き合った時,突如として「選択のない人生」が現れてきたのだ.「人生は選択の連続である」はある意味「選択のない生活は人生ではない」ともいえる.私が他人と関わり合ううえで感じていた違和感,解離感の正体は「私は人生を歩んでこなかった」事が原因であると気づいてしまった.

 

環境や制約によって選択肢を奪われた結果,自分の人生を見いだすことのできない不幸を抱えた人間は存在している.しかし私の場合,選択する機会がいくらでもあったのにそれを意図的に捨ててしまっていたのだ.そしてその事実に気づきながら,なお『完璧さ』を守ろうとする宗教が選択を拒んでいる.形骸化した『完璧さ』に気づきながら,自分自身を守ろうとする防衛機構が必死に原因を探し,作り上げようとしている.

 

こうなってしまったのは発達障害のせいかもしれないし,育ってきた環境や受けてきた教育のせいかもしれない.しかし今必要なことは原因の特定ではない.立ち止まってしまったのなら,また歩き始めればいい.歩きながら考えることは許されるが,立ち止まったままでいることは許されない.一時停止は再び歩みだすための過程でなくてはならない.

 

『人生』を歩んでこなかった自分の足跡を肯定し思想を継承することは自身の『人生』の消失を意味し,これはいわゆる”人間的な死”と同義であると考える.しかし選択をし結果を受け入れるという生き方への変化は,今までの23年間の虚無を受け入れることに他ならない.両方とも茨の道.困難を乗り越えるためには希望を持つことが必要だが,縋るべき希望は私自身を守るために自らの手で切り捨ててしまった.23年間で様々なものを失ってきたが,肝心の「成長」は獲得できなかったのだ.

 

私の持つ「生きたくない」という感情はおそらく「23歳分歳を取った肉体で再び自分の意志で産まれてくることが出来るか?」という問いかけに対する自分の精神の回答であり,「死にたくない」という感情は生物の本能が訴える生物的な死を恐れる反応なのだろう.そして選択を先延ばしにする忌むべき習慣が人間としての生を殺し,選択をするという改革が生物としての生を殺してしまうようにさえ感じてしまう.

 

再びこの文章を読み直すとき,誰かがこの文章を読むとき,私の人生はどのようなものになっているのであろうか.