もバンドーの落書き帳

もバンドーの日記みたいなもんです

正義は自由より強し,君はどっち派?

お久しぶりです,もバンドーです.

 

 

めっきり寒くなってきて,朝起きるのが厳しくなってきましたね.私は家にいる時間=プライベートの時間に厚着するのが行動を制限されているようで嫌いなので,特に風呂に入った後のパジャマは薄着なのですが,冷えるわ喉は荒れるわで散々な目に合っています.やっぱ冬は嫌いです(#^ω^)

厚着しろ?嫌です(´;ω;`)

 

 

最近,Youtubeを見ていると自分の妻を呼ぶ際に「奥さん」と呼ぶのにとても違和感を感じます.私はテレビを持っていないのでずいぶん昔の話になってしまいますが,ニュースなどの街頭取材で夫のことを「旦那さん」と呼んでいるのにも違和感を感じていました.(当時高校生) 

 

就活などでは明らかに異質な,『御社』『貴社』といった”正しい”呼び方が慣例として使用されてきているにも関わらず,日常生活には”正しい”呼び方が使われていない,あるいは”正しくない”呼び方が氾濫してきているのは何故でしょうか?原因は単純,言葉の使われ方が日々変化するように,言葉を使う我々の文化や価値観も日々変化しているからです.

 

つまり,結婚により生じる『妻と夫』という関係性より,人間は『一個人』として尊重されるべきという価値観の周知,または一般常識としての広まりが,『夫』や『妻』といった他者をある一種の属性を持つ物として縛るような表現を嫌う風潮が生まれてきているのではないか?という思想です.

 

しかし,『自身が何者であるかを画一的に表現する』ような現代社会において不都合に感じられる属性は,他者から見ればその人を大まかに評価する非常にわかりやすい基準であることも事実です.実際に,他人の夫や妻のことをわざわざ「〇〇さん」と表現することは現代の文化や風潮にそぐわないでしょう(本当か?).そういう意味では慣習的に”正しい”と呼ばれる表現を使うことに違和感を感じないでしょう.

 

こういった現状は,「自身の感性に合致した表現でない」と感じる人間が自身から表現を変化させた結果が受け入れられ,特に違和感のない人間も誰かに強制される訳でもなく表現を変化させるといったプロセスにより自然と社会に浸透していった結果であると思います.

 

逆に今私の感じる違和感は,自分の受けた教育によって培われた・あるいは実際にそのような属性を持つに至っていない私にとっての『正しさ』の価値観と合致していない事によるものであると自認しています.これは自身の境遇の変化や意識の変化により,いずれは変わっていくでしょう.

 

人類に言語が生まれ,文字として後世に残るようになってからも絶えず言葉は変化し続けています.同様に言葉の形が変わっていなくても,その言葉自体が持つ意味や表現も変化し続け,人々に適応していく・人々が適応させていくのでしょう.言葉・表現そのものを規制には何の意味もなく,構造や社会そのものを変化させることで人々の意識を変えることが重要だと思うのです.逆に表現そのものに対する規制は当事者が悪意をもっていなくても,”前例の存在”が後続の悪意を持った人間の恣意的な運用の危険性を生むため非常に危険であり,一切認めるべきではないと思います.

 

自身が不満を持つ表現に異を唱え,矯正するという働きかけが「自身への利益の拡大」という観点のみであれば”規制”というのが最短なのでしょうが,『表現の自由』を尊重しつつ・もしくは本質的に社会を変化させるにはその表現自体の意味を失わせるのが最短なのではないでしょうか?

 

まぁ自分を変えるほうが早いんですが....(´;ω;`)