もバンドーの落書き帳

もバンドーの日記みたいなもんです

「お気持ち」に「配慮」できる人を増やすには?

こんにちは,もバンドーです.

 

最近社会問題の話を聞いていると,自分の世の中を捉える価値観や視点が,世の中の一般の人と少しズレている事を再認識させられてかなりしんどいです.まぁその乖離を認識した時点で自分が何者か分からなくなってしまうのであまり考えすぎないようにしているのですが....

 

 

今日,友人の「性犯罪のセカンドレイプ問題で,どうして『お気持ち』と揶揄するのみでそこに配慮できないのか?」というツイートに(講義中に)意見を返したところ,私のタイミングの悪さも相まって何とも歯切れの悪い終わり方になってしまったので,備忘録としての意味も兼ねてメモしておこうと思います.

 

 

※注意 この文章はなるべく公平性を保とうと頑張って書いた文章ですが,男が書いていますし私の私見や偏見も交じっている可能性があります.また,返信先へのプライバシー保護の観点から引用は致しません.

 

 

性犯罪,例えば痴漢や強姦においてよく「露出の多い服を着ているから」「治安の悪い場所に行くから」といった『自衛論(または自己責任論?)』を性犯罪の被害者に投げかけることが”セカンドレイプ”に該当するという言説が多く見られます.(※ここでは,警察の捜査の過程で被害を追体験させられるといった意味ではなく,赤の他人が被害を受けた事件に言及する会話やネットでのコメントにおける”セカンドレイプ”にのみ限定して私は意見を述べます.)

 

社会にこういった流れがあるにもかかわらず,「自衛論(または自己責任論?)を述べることがセカンドレイプに当たる」と述べることが「お気持ち」と揶揄される現状に対して「何故配慮が出来ないのか?」という疑問の提示が事の発端でした.

 

当然,世間の男性諸君が皆「性犯罪は自衛によって防げる」とは思っていないでしょうし,まして身内や近い知り合いに「何故自衛しなかった?」と言葉を直接投げつけることで”相手が自分に対してどう思うのか”まで考えが回らない人は少ないでしょう.

(もしかしたらこの時点での考えが回らない人について言及していた可能性もありますが,これはその人のモラルの問題なのでここでは割愛します)

 

 

セカンドレイプに関して言及することが「お気持ち」と揶揄されてしまうのは何故か.一旦この問題は置いておいて,セカンドレイプという大本の問題が起こる原因について考えてみましょう.

私は赤の他人の被害者に対して「自己責任論」を投げかけてしまう原因は「公正世界説 ”人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである”」の反対,つまり「なんの罪もない人間が被害に遭うなんてひどい事あり得ない!」という意識がにあると考えています. つまり,犯罪の被害者と加害者のみが「理不尽な被害」の存在を認知しており,世間一般の犯罪など起こさない善人はそうした悪意を知らぬが故にセカンドレイプの加害者となる,といった理屈です.

 

こういったある種の「無辜であるが故に加害者になる」といった悲劇を防ぐには,そういった事実が存在することを周知するほかありません.大体の人は”セカンドレイプという概念が存在する”事を伝えるだけで「公正世界説が誤っている」ということろまで考えが及ぶかは別として,経験則として「被害者に自己責任論を投げかける事は被害者を傷つけることに繋がる」まで考えが至ると思います.

 

しかし現実として被害者に”心無い”言葉を投げかける人間は存在します.こういった人間はどのような人間なのでしょうか?

”お気持ちと揶揄する”といった表現に悪意がある人間が混じっているといった意味を強く感じますが,悪いことを悪いと思ってやる人間に付ける薬は無いので無視します.

 

私はこういった人間は「犯罪など心から考えたこともなく,理由のない悪意に晒された経験のない純粋な人」ではないかと仮定しました.こういった人間は犯罪の加害者になりえない,本来は犯罪者とは対極にある存在のはずです.

ではこういった”無辜の存在で身近に犯罪被害者もおらず,日常も悪意を持った行動をしない”人間に”セカンドレイプ”という概念を伝えるにはどうアプローチをすれば良いのでしょうか?

 

 

こういった場合によく見かけるのが『被害の可視化』,簡単に言うとその人間でも分かるように実例を用いて説明することです.しかし,私はこのアプローチに問題があると考えます.

 

相手が犯罪に関わりのない人生を送っている以上,ここで用いられる例は”犯罪”という明確な基準のない,非常に些細な問題になってしまいます.当然”無辜の存在”も不快に思う内容ではあるのでしょうが,許容できる範囲であり許容してきたからこそ”セカンドレイプ”という概念を解せないのです.

そしてこういった極端に”薄めて分かりやすくした”例『お気持ち』と揶揄されているのではないでしょうか?

 

 

また,今回の発端が性犯罪についてであったのであえて男性側に寄せて書きますが,女性側も男性の社会的制約・そして本能に基づく苦悩に関心を示していない点も要因の一つではと考えます.私は「性欲を持つことへの苦痛」と表現し,双方ともに歩み寄る構図が出来ていないのが問題なのではないか?と投げかけました.

 

ここで相手の返信は「性欲はエロ本やオナホで自己処理可能で恵まれており,男の性欲は大目に見られてきた」と反論されました.しかし,私は性的欲求が性的快感によって解消可能であるという指摘には疑問が残ります

 

実際に私は性的欲求と”愛”がリンクしていない(という自負がある)ため正しいかどうかは分かりませんが,性的欲求とリンクするといわれている愛には承認欲求や相手への所有欲,相手に所有されたいという被所有欲など様々な要素があり,「射精すればハイOK」といった単純なものではないと思います.(一般の皆様,ご意見ください(´;ω;`))

ある意味「男性の性欲といった解消可能なもので何の罪もない人が被害を受けるなんてありえない!」という公正世界説の現れではないでしょうか.

 

そして話を戻して,男性は慣習的に「強くあれ」「泣き言を言うな」といった教育を受けているため,女性と比較して自分の気持ちを表明することが認められていないという問題もあります.これは”男性が男性社会を作り上げ女性の権利を侵害している”という思想から言えば『自業自得』と言えるのでしょうが,そういった社会を作り上げているのは社会に適応し,犯罪など微塵も考えない無辜の男性達ではありません.逆に小市民的な男性の普遍的に植え付けられている「自分の気持ちより現実」という思想が,悪意のない人々から「お気持ち」と揶揄する言葉が飛んでくる原因の一つではないかと感じます.

 

教育や概念の周知によって”良識的な”人間は増えていると思いますが,一部のこうした構図がネガティビティバイアス(ネガティブなことが記憶に残りやすい傾向)によって増強され,記憶に残ってしまっているのでしょう.

 

 

今取っている対応は,相手の気持ちが分からない人間をゼロにすることに繋がっているのでしょうか?私は否だと思います.人間は皆,真に他人の気持ちを理解することは出来ず,それは自分でさえも例外ではないと認識したうえで落としどころを見つける,これこそが議論ではないかと思います.

 

そしてこの議論の場に立った時,私たちは「配慮のできる人間を増やす」という観点から考えると,こういった問題の起こる構造そのものを変えていく働きかけをすることが大切なのではないでしょうか?

 

 

 

ーーーーというところまで伝わったかどうかは定かではありませんが,相手からは「よくもその文章を被害者に向かって使えたな?」という反応が返ってきました....(´;ω;`)