もバンドーの落書き帳

もバンドーの日記みたいなもんです

平等と個性,ヒトと”わたし”

 こんにちは,もバンドーです.

 

 

 

冷え性で毎晩手足先が冷えまくって辛いです.特に足は温めようとしても難しい.... 布団かぶっててもヒエッヒエなので勘弁してほしいです(´;ω;`)

湯たんぽ買っちゃおっかな.... でも準備すんのめんどくさいしなぁ....

 

 

Twitter中に講義を受けていたら,こんなツイートが流れてきました.

 

 

講義中だったのでついツイ主さんのまとめだけ読んでお気持ち表明をしてしまったわけですが,内容が気になったので家に帰ってからちゃんと見直してみました.

決してこのスピーチが韓国発だったからというわけではありませんよ(;^ω^)

 

 

内容に関しては実際に見て自分で判断してほしいのですが,『差別コスト』という概念の提唱,そして若者(動画内では30歳以下)の感じる不平等感の可視化は結構面白いなと思いました.

 

 

動画内では韓国の方がスピーチをしていることもあって,男性のみに課せられた義務≒逆差別として兵役が何度も挙げられていました.実際アイドルやスポーツ選手が兵役のために活動中止を余儀なくされたり,身体的な問題から兵役に就けなかった人に対するバッシングがあったりと韓国男性の中では大きな不満要素になっているようです.(戦争中にのんきなもんだなとは思いますが)

 

しかしスピーチの通り,「男女差別が解消されたら女性が義務を負うのだろうか?俺は騙されてるんじゃないか....?」と考えると疑問が残ります. 

皆さんが「女性に兵役が義務化されたら,いざ戦争になったとき女性兵士が前線に送られるようになるか?」と聞かれたら「Yes」と答える人は少ないのではないでしょうか?

 

 

「男性が女性に弱くあるように求めた結果」というスピーチ内では言われていますが,誰が見ても明らかであるように一般的に女性は体格・身体能力で男性に劣ります.また男性は少数生き残れば同時に子孫を残すことができますが,女性は女性の数以上に同時に子孫を残すことはできません.

いわば自然の合理性が自然に男女に役割意識を持たせ,それを制度として定めている訳です.

 

 

また,人間は集団を作り社会を形成して生きる生き物です.その集団とその外部を区別するには.国籍や宗教,思想などを”共有”する必要があります.これは最近よく言われる「個性を大事にしろ」「多様性が大切だ」という主張とは対極にあるものです.

 

 

つまり近年の平等社会実現への運動は「自然の与えた合理性からの脱却」「人間がヒトではなく”わたし”」として生きることへのシフト(もしくは強制)と言えるのではないでしょうか?

 

 

人は生まれながらに性別・人種・環境・個性などが異なります.自分と同じ人間が存在しないのと同じように,生まれながらにして平等など存在しえないのです.

しかし集団を作らないと生き残れない弱さゆえに,過去の人類は本能に従い教育によって個性を統制し,集団という枠の中で行動することにしました.この枠は人を縛る”枷”であると共にヒトを守る”鎧”でもあるのです.

 

実際,私自身は”ヒト”として生きる正解が崩れ去り,”わたし”として生きることを強制されつつある社会に生きづらさを感じます.強烈な個性や輝く才能に恵まれない人間が”わたし”として社会と対峙するのは非常に心細く孤独感を感じます.

 

 

 

――――随分話が脱線してしまいましたが,ここで最初の話の『逆差別=差別コスト』に戻ってみましょう.自然の合理性が定めた差別≒区別を取り除くことが果たして真の平等に繋がるのでしょうか?答えは『完全な平等に繋がる一歩』なので正解,しかし『生物としての制約を無視している』ので不正解の両方ではないでしょうか?

 

 

そういう意味では『完全な平等』は人間を超える存在にならなければ不可能でしょう.

人間を超えるものにならねばな・・・・・・(DIO並感)

 

 

・・・・冗談はさておき.

当然,取り除くことが100%正解の差別はまだまだ存在するでしょうし,そういったものへの議論はなされるべきだと思います.(尊属殺とかは改憲されてしかるべき差別ですよね)

 

 

私は自分の心の中で反芻し続けます.

 

「真の平等とは何なのか?」

 

「権利の平等?義務の平等?機会の平等?完全な平等?」

 

「そもそも私たちが必要としているのは平等なのか?」

 

 

正解のない問題だからこそ,考え続けることに意義があると思ってます.