もバンドーの落書き帳

もバンドーの日記みたいなもんです

『生』と『人生』

こんにちは,もバンドーです.

 

 

以前紹介したダイソーの500円ゲーミングマウスを探しに行ったものの,自転車で行ける範囲の店舗には在庫がありませんでした....(´;ω;`)

「そこになければないですね」を生で聞くことができ,しかも無駄使いを抑制できたので良しとしましょう(?)

 

 

 

先週末は祖母の葬式があり休まる暇がなかったので,一週間ぶりの休日といった心持ちです.この年齢になると,死後の葬儀や雑多な後始末(?)の方が忙しくて大変です.父の立場としてはそっちのほうが良いのかもしれませんが....(自分の子供に泣くところなんか見せられませんからね)

 

 

葬式の最中は別段悲しみが大きかった訳ではなかったので,念仏の間は正直暇でした.そんな暇な時間と身近な人の死という出来事で,『人生とは』『生きることとは』について考える機会と時間を与えられたのですが,私は「人生は自分の知覚した世界そのもの」なのではないか?と考えるようになりました.

 

 

自分の外には何か”絶対的な物体”としての世界が広がっており,私たちはそれを感覚器官を通して知覚し,こころを通して認知します.世の中の人間すべてが同じ空間で生きて,同じ物事に対して反応しているにも関わらず全く違った答えが出てくることがあるのは,『こころ』は各々が生まれ持った時点で個性を持ち,環境から感じたり学んだりして変化しているからではないのか?という理屈です.つまり自分の感じている世界は自分の人生,自分のこころの写し鏡と言えるのではないでしょうか?

 

よく,「お前と俺は生きている世界が違う」といったセリフを聞きますが,あれは世界が違うのではなく『こころ』が違うために見えている世界が違っているといった感じです.本人にとっては『こころ』を通じて見えた世界しか存在しないので間違ったことを言っている訳ではないんですが....

 

 

人と人が関わり合うときということはすなわち,それぞれの”世界”の一部が共有されること.人が死ぬことはその交わった世界を共有する存在が消えること.だから誰かが死ぬとその喪失感で悲しむのではないかという考えです.

 

悲しまないのは簡単で『人と世界を共有しない』か『自分の世界を持たない』ことです.赤の他人が死んでも悲しくないのは世界を共有していない≒何も失わないからで,私が親族が死んだにも関わらず悲しみを抱かなかった理由は後者かな?と感じています.

 

 

自分の意見は持たず,他者の目にどう映るかのみで行動基準を決め,角を立てない立ち振る舞いをする―――― 他者の目を気にしているおかげで見た目はいい人に見えていたかもしれませんが,『自分の人生』を持っているか?と聞かれると疑問が残ります.

 

実際,私には過去の思い出や記憶といったものが殆ど残ってないです.生まれ持った物に対する執着心と,幼少期に転勤族で人間関係の喪失を数多く経験したのが原因かもしれません.

 

 

 

無論自分のこころに従うことはリスクも伴います.自分の感覚が多数派から外れていればそのことで苦しむこともあるでしょうし,こころが違う人とぶつかることもあるでしょう.それでもいざ自分が死ぬときになって「何もない人生だった」と思わないような生き方をしたいな,と思い始めたもばんどでした.

 

 

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